3/5礼拝説教より

ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。

(マルコによる福音書14章72節)

「いきなり」とは「投げる」という意味です。「泣き崩れた」と翻訳する聖書もあります。とても具体的に、ペトロの姿が描かれています。いったい、そのペトロの姿は何を意味しているのでしょうか。

一つの代表的な解釈によると、それは自分を隠すため、だと言います。自分を完全に隠してしまう。周りの人からすっかり自分を隠してしまって、ただ神の前に、涙を流した。他の福音書は、「外に出て泣いた」と伝えていますが、人々から離れて、神の前に自分を投げ出して、泣いた。これが一つの読み方であります。

新共同訳聖書は少しニュアンスを変えて、「いきなり泣き始めた」と翻訳しています。別の意味をくみ取っているようです。今まで、考えてもみなかった行動に移ったということです。突然、崩れる。崩れて泣き出した。涙の中に、彼自身が崩れてしまった。そう、読みほぐしています。

「わっと泣き出した」と翻訳する聖書もあります。ある人は、それを「我が折れた」と表現しています。我を張っていた。神の前で我を張り続けていたペトロですが、それが崩れ落ちるのです。ペトロの涙。それは、悔い改めの涙でした。我を張っていた、その我が折れて、神に身を投げ出して、泣いたのであります。


イスカリオテのユダとは、対照的です。

マタイによる福音書によりますと、ユダは「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言って、代価としてもらった銀貨を神殿に投げ込んでから、首をつって死んだとあります。ユダはたしかに「後悔」し、お金を返すことで自らそれを償おうとしました。しかし、それで事はもとにもどる由もありません。結局、彼は自己崩壊せざるを得なかったのです。

ユダは、お金を返すことで、償おうとしますが、なお、自分で自分を支え続けようとするのです。

ペトロは違いました。自分の身を神に投げ出しました。神の前に崩れ落ちて泣いたのであります。


それでは、なぜ、ペトロはそのように泣き出したのでしょうか。悔い改めることになったのでしょうか。

ペトロは、あの人を知らない、と3度も繰り返しましたが、主はそのペトロをすでに見通しておられ、ご存知でいてくださった。そのことにペトロは気がつきました。それで、悔い改め、涙を流したのであります。

「鶏が二度鳴く前に」との言葉に心が留まります。主イエスは、ただ単に、「あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」、と予告されたのではありませんでした。

鶏、それは新しい朝、いのちの朝を告げる鳥です。主にあって、新しい朝を迎える、その象徴、それが鶏です。主は、ただ単に、ペトロが弱さを露呈するだろう、と言われたのではなくて、その弱さを、甦りの命のうちに、覚えておられるのであります。


主が甦りのいのちのうちに、知っていてくださったペトロの弱さとは、何だったのでしょう。

71節にこう記されています。「すると、ペトロは呪いの言葉さえ口にしながら、『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と誓い始めた」。ここに「呪いの言葉」とあります。新共同訳聖書は丁寧に翻訳しておりますが、もとの言葉を右から左にそのまま移し換えますと、「ペトロは『あなたがたの言っているそんな人は知らない』と呪い、そして、言った」となります。

呪う、というのは、激しい言葉です。アナテマ、「呪われよ」というギリシャ語が用いられています。それは、神の祝福から切り離す言葉、信仰の交わりから追放する言葉、いっさいの社会的な権利を剥奪する言葉です。激しい言葉がペトロの口から出ました。

それでは、ペトロは誰を呪ったのでしょうか。聖書は、誰を呪ったというふうにははっきりと書いておりません。ただ、呪った、と記しているだけです。それで、ペトロはこのとき、誰を呪ったのかということが、ここを読む人の問いとなるのであります。

一つの可能性は、ここで自分を問い詰めている人々、お前はあの人の仲間だ、と言って追求する人々を呪った、ということです。そういうことも考えられましょう。やっかいなことになってしまった。自分が主イエスの弟子であったことがばれてしまった。それを追求する人々が憎い、そう思ったかも知れません。

しかし、もっとも広く支持されている解釈は、自分を呪ったのではないか、ということです。この時、ペトロは、自分の愚かさを嘆き、自分を呪ったのかもしれない。自分はなぜ、あのイエスなどという男について来てしまったのだろうか。わたしに従って来なさいと言われた時に、なぜ、あの時断らなかったのだろうか。なぜ、他の弟子たちのように、ここまでついて来るようなことをしないで、遠のいて、主イエスの裁判を見守っていればよかったのに、どうして、ここまで来てしまったのだろうか。お前はダメだ、お前なんか死んでしまえ。そのように自分の人生を呪う。

「呪う」ということは、自分自身の人生が祝福の中にないと認めるということです。神の祝福から切り離すことです。私共も、しばしば、それをします。自分が、神の祝福の中にあるということを、受け入れることができなくなる。幾たび、それをすることでしょうか。自分を呪うことの、最も具体的な現れは自殺です。イエスを裏切って、イエスにくちづけをして、この人が、イエスだと敵に売り渡したユダは絶望的な自殺をしました。ペトロはそうはしませんでしたが、しかし、ここで精神的な自殺をしたと考えることもできましょう。

そして、自分を呪う者は、神を呪うのであります。自分を祝福の中に捕らえている神を否定するのです。主が知っていてくださったペトロは、このようなペトロでありました。

しかし、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主イエスのお言葉を思い出して、ペトロは泣きました。

このペトロの涙の中で、夜が明けるのであります。