3/12礼拝説教より

 

主イエスが裁判をお受けになった。そのことが、詳しく記されています。

(マルコによる福音書15章1節)

 

当時、ローマの占領下にある人々は、自分たちの手で、死刑を執行することはできませんでした。それで、この地を治める責任者、総督ピラトのもとに主イエスを引いてきて、ユダヤ人にとっては最も恥ずべきこととされていた、十字架による死刑を求めたのであります。

 

裁判の様子を伝える記述が続いているわけですが、この裁判の記事が、主イエスの受難と十字架の記事の中で、最も多くの分量が裂かれているのであります。何を意味しているのでしょうか。

こういうことでありましょう。主イエスが十字架につけられて殺されたのは、裁かれたから、裁判の判決を受けたからだということを聖書は伝えている、ということです。

 なぜ、それほどに、主イエスが裁判をお受けになったということが重要なことだったのでしょうか。それは、人々によって裁かれる、その裁きのただ中で、実は、父なる神の裁きがなされていたということであります。主イエスは神の裁きをご自分に受け入れておられる。そのことを聖書は伝えようとしているのであります。


「イエスがもはや何もお答にならなかったので、ピラトは不思議に思った」

「不思議」と言う言葉は、「驚いた」と訳した方がよい言葉のようです。不思議に思い、驚いたのであります。「イエスがもはや何もお答にならなかったから」驚いたのであります。この後、主イエスは、ひたすら沈黙を守りとおされます。

 

ピラトは裁判官です。裁判は、人が人を訴えるところから始まります。必ず原告がおり、被告がいます。原告は正義を主張します。正義の名によって、裁いてくれるようにと訴える。いっぽう、訴えられた者は、まったく相手が不当だと憤った場合には、それこそ全力を込めて、わたしは無罪であるとか、その事についての責任はないとか、自分の正義を主張することでしょう。

ピラトの前で裁かれる主イエスも、弁護人が立ち、ひたすら弁護すべきところです。ピラトは、そういう裁判に慣れていたに違いありません。しかし、主イエスは沈黙なさる。まったく弁護なさらない。このような被告に会ったのは始めてだったのっではないか、と思います。ピラトは不思議に思い、驚いたのでありました。


「私どもキリスト者は、もしかしたら、このピラトの驚きほどにも、裁かれている主イエスのお姿に驚くことが無くなっているのではないか。」

 

人は皆裁きます。なぜ裁くのでしょうか。自分に正義があると思っているからです。正義の名において訴え、正義の名において裁きます。けれども、わたしたちは正義を口実に用いるということもあるのではないでしょうか。正義を口実に用いてでも裁こうとする。そして相手を裁いてしまう。裁くことによって退けます。裁いて罪に定め、罪に定めることによって相手を拒否し、否定し、滅ぼします。あるいは、少なくとも相手を支配する。

ですから、「さばく」ということは、正義、不正義を越えて、私どもの、支配しようとする欲望の現れなのではないでしょうか。私どもの、王になりたいという思いの、現れと言えましょう。悲しく辛いことだけれども、そのように裁くことによって、私どもは、ようやく自分が自分であることを、保ち得る快感をも知るのではないでしょうか。

私どもは、大小さまざまの裁判をいつも行っています。「あいつはダメだ」と言うのも、すでに裁判の始まりです。「あの人はおかしい」と言うことも。そうすることによって、自分はダメでもなく、おかしくもないという、自分自身を確かめる。その確かさに立つ快感を覚える。お互いに裁き合っている。

ピラト前で裁きをお受けになった主イエスは、実は、私どもが裁き合っているその中で、裁かれる者として身を置いておられるということだったのではないでしょうか。ポンテオ・ピラトのもとに行われた裁判は、わたしたちと決して無関係ではありません。わたしたちが人を裁く。そのわたしたちのただ中に、主イエスの裁きも行われた。主のみ苦しみがあった、ということではないか、と思うのであります。そして、主イエスは、そこで、父なる神の裁きをお受けになっておられる、聖書はそう語っているようであります。

主イエスは黙っておられました。真実の王であるならば、この時こそ、すべての人を敵にまわして、王者としての宣言があってもよいはずです。しかし、主イエスはただピラトの言葉を受け入れただけで、その後は、黙っておられました。主イエスは、父なる神の裁きを、ご自分に受け入れてくださったのであります。わたしたちの罪が、最も鮮やかに表れている私たちの裁判を受け入れて、しかし、とても皮肉なことに、しかしまた、まことに恵み溢れることに、この愚かな人間の裁きの中で、神のイエスに対する裁きが行われていた。

主イエスは、ただ人間の愚かさを許容なさったのではありません。罪を許容なさったのではありません。神の裁きを受け入れておられる。そして、そこで、本当は裁かれるべき私どもの罪を赦してくださった、のであります。

 

主イエスがここで口を開かれたならば、私どもは誰一人、ひとたまりもなかったであろうと思います。黙って裁かれてくださったのであります。大いに戸惑いました。その主イエスの沈黙には、人々の罪を贖うために十字架に磔にされる密かな決意が示されていたのであります。そして私どもに、もうお前たちにはわたしが裁かれているような、裁きと滅びへの道はないと、主は言われるのであります。

主イエスが黙っておられることの中にこそ、私どもが生かされているという恵みの秘密があるのだと思います。その不思議さ、驚きの中に、結ばれて生きたいと願います。