3/19礼拝説教より

「おまえたちはユダヤ人の王を赦してもらいたいのか」 

マルコによる福音書25章7節

祭司長たちに扇動された群衆は、過ぎ越の祭りのたびごとに、囚人のひとりを釈放するということになっていました。その習慣にしたがって、「いつものとおりにしてほしい」と要求しはじめます。

そこでピラトは、祭司長たちが主イエスをひき渡したのは、ねたみのためであることが分かっていたので、「おまえたちはユダヤ人の王を赦してもらいたいのか」と言って、主イエスを赦そうとしました。

しかし、群衆は、「バラバを」と要求します。


 

ピラトには勇気がありませんでした。あきらかに不当と知りながら、ユダヤ人のために、イエスを罪に定めました。

なんとかイエスを釈放したいと思ってはいたのでしょうが、弱気になりました。彼は、風に吹かれる木の葉のようにちりぢりになるのです。群衆を恐れて、何が正しいかを見失ってしまったのであります。

主イエスを裁く裁判。わたくしたちがここに読みとるのは、弱さや、愚かさ、不甲斐なさ、恐ろしくもある無責任さ、そのような人間の姿であります。

群衆もまた同様であります。祭司長たちに操られたとはいえ、主イエスを十字架につけよと要求する。つい数日前にはホサナ、ホサナと言って主をエルサレムに歓迎したにもかかわらず、手のひらをかえたように、バラバを赦せ、イエスを十字架につけよと、今は、繰り返し叫ぶのです。

権力を持つ人々の前に、民衆、群衆は、弱くもろい。人間というものの危うさを思わずにはおれません。主イエスを部隊をあげて侮辱する兵士たちの姿もまた、同様でありましょう。

聖書は、このように主イエスを裁く人々の愚かを描き出しています。


宗教改革者マルチン・ルターが行った説教の中に、こんな言葉があります。

「イエスは、ご自分が革命をおこすために来たことを認められました。それでいて、イエスは反逆者ではありませんでした。」

主イエスがこの世の裁判をお受けになる。エルサレムの祭司長たちが告発いたしました。主イエスは、祭司長たちの宗教、その権威をくつがえすお方です。そして、本当は、祭司長たちは自分たちの権威を主イエスにおささげしなければならない。そうすることこそ、彼らは相応しいはずなのに、そうすることができない。

主イエスは、しかしこの時、人間の手による裁判にだけ服しておられたのではありません。人間の行う愚かな裁きの中に、不思議な神の裁きがなされることを受けとめなさったのであります。