4/2礼拝説教より

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」

(マルコによる福音書15章)

十字架上の主イエス・キリストのお言葉です。神のひとり子が父なる神に見捨てられる者のごとく叫ばれて息を引き取られました。

これが十字架において起こった出来事です。

マルコ福音書は主のお言葉を伝え、十字架のまことの姿を語ります。そして、ここにこそ私たちの助けがある、と語ります。

 


この時、光が遮断され、暗闇が全地を覆っていました。「昼の12時になると、全地は暗くなり、それが3時まで続いた」とあります。

神のない世界が全地に襲いかかってきたと言っています。そこには死しかない。暗黒の支配が覆いかぶさってきたというのです。

その暗黒の闇を誰が一番味わったのでしょうか。主イエス・キリストが味われたのでした。

誰も、主イエスのお言葉を理解しません。ある者は、エリヤを呼んでいるのだ、ひょっとしたら、今こそ天の軍勢がきてキリストを助けだし、イスラエルを救うかも知れない。見てみよう。そう言って酸いぶどう酒を飲ませようとします。

誰ひとり、神の子キリストが神に見捨てられる者として息を引き取ることを知らなかったのであります。。気付かないのです。


どうして、キリストは神に見捨てられなければならないのでしょうか。

私たちの罪のため、罪人である人間の救いのためでした。

私たちは、自分の罪の大きさと深さを知りません。誰ひとり自分の罪を捉えきれないのです。闇の中で自分を見つめると、自分の姿が良く見えないように、光が照らされたらきっと明らかになるであろう自分の本当の姿に気付きません。自分の足元が崩れていこうとしているのに、堅い岩の上に立っていると思い違いをしているのです。

人間の罪を知っているのは私たちではなくて神様です。光であられる方が私たちの罪を知っておられるのです。そして、神様は罪をそのままにしておかれないのです。罪が支配することをお望みにならないのです。


罪の支配が勝利するところはどこでしょうか。

死においてだと聖書は申します。「罪の払う値は死である」。死は愛する者と分かれるだけではありません。罪人の死は、生きている今にまして私たちを神様から激しく引き離すのです。

ですから、私たちは死を美しく飾ることはできません。どんなに飾りたくても、死においては、すべてはぎ取られるのです。

主イエスは、わたしたち罪人のために、罪人の救いのために十字架におかかりになりました。

「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。そう叫ばれたのでありました。

これが十字架のイエスさまのお姿です。しかし、これによって暗闇が世界を支配した、と聖書が伝えるのではありません。そうではなくて、なによりも主イエス・キリストが死と暗黒の闇を味あわれたことによって死の支配に風穴があけられたのであります。


この時、同時に起こった、大切な二つのことを、聖書は伝えています。

一つは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」ということです。神殿の垂れ幕とは、最も奥深い所、至聖所の前に垂れ下がっている幕のことです。こちらとあちらを隔てている仕切り、神の側と人間の側とを区別している仕切です。その幕が裂けたということは、誰でも、幕の中に入っていくことができるようになったということです。

十字架は、人と神との間の通行を可能にした、と聖書は伝えます。

第二のことは、百人隊長、ローマの軍隊の隊長が、もちろん異邦人ですが、「本当に、この人は神の子だった」と信仰を告白したということです。これは、たいへん重要な告白です。

全地が暗闇に覆われる中に、主が誰であるかを口にした者があった。この人が誰であるか分かった者がいたのです。

深い闇が、わたしたちの目から十字架を隠しました。しかし、十字架は、この世界の暗黒、人間の闇を明るみに出したのです。しかも、その闇の中に、不思議な神の救いのみ業がなされました。

宗教改革者マルチン・ルターは、

「主の死は死を呑み込みました。それで百卒長は思わず言いました。『まことにこの人は神の子であった』と。主は驚くべき王でいらっしゃいます。他の王は生きているあいだに強いのですが、主は死において強くいましたまいます。生きているあいだ、彼は踏みにじられ、彼の敵はその生命を奪いました。しかし、主がなくなられたとき、この百卒長は震えおののき、主を信じようという姿勢を明らかにしたのでした。」

そう語ったと伝えられています。

このルターの言葉は、神さまがどれだけ深く私たちのために、私たちのところに下って来てくださったかを語っています。神さまの尊いお姿が、まったく消え去るほどに、深くイエスというお方の低さの中に、暗闇の中に隠れたということであります。