4/9礼拝説教より

 

アリマタヤ出身のヨセフという人が主の遺体を引き取りました。

マルコによる福音書15章43節以下

ある説明によりますと、ヨセフが主の遺体を引き取ったというのは、安息日に汚れていてはならないという旧約聖書の律法に対する忠実からなのだ、といいます。

しかし、ヨセフは、それだから、主イエスの遺体を引き取ったのでは、ありません。布で遺体を巻き、墓に収めます。自分のために掘った墓ではないかと思いますが。汚れたものを始末するだけならそのようなことをするでしょうか。ヨセフのあらわした勇気は、その程度のことではなかったはずです。


「この人も神の国を待ち望んでいたのである」

ヨセフは、主イエス・キリストに神の国の訪れを見る人であった。キリストにあって神の国を待ち望むんだ人だったのです。そして、それゆえにこそ、ヨセフは十字架の主を自分のところに受けとり、そのお体を自分の墓に迎えたのであります。

死に至るまで忠実で荒れ、という言葉があります。これは、ヨセフのように自分の墓に主イエスを迎え入れよという意味です。自分の墓に主イエスを迎え入れるならば、自分たちの人生は定まります。


 

「下げ渡した」(45節)

マルコ福音書だけが使っている言葉です。上から与えられる。下賜されるという意味です。

この珍しい言葉は、ペトロの手紙二の1章の3節と4節に「与える」と翻訳されて、それぞれ使われています。新約聖書ではそれだけです。こう書かれています。

主イエス・キリストは「ご自分の持つ神の力によって、命と信心とにかかわるすべてのものを、わたしたちに与えてくださった。」。あるいは、続けて、主の「栄光と力ある業とによって、わたくしたちは尊くすばらしい約束を与えられています。」と。

 

「だから、あなたがたは、力を尽くして信仰には徳を、徳には知識を、知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には信心を、信心には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。」このように、愛を冠として、生きることを教えます。

神の国を待ち望み、永遠の御国に入る生活を生きる。そのために、主イエスは必要なすべてのものを与えてくださった。下げ渡してくださったのでした。このペトロの手紙の言葉は、 神の国を待ち望んでいたアリマタヤのヨセフが、主の体を下げ渡された、主のお体を自分に迎えた、という主の埋葬の物語が思い起こされているのであります。

十字架の主を迎える、自分の墓に迎える、それは信仰です。その時に、主イエスはご自分を、その恵みの力を与えていてくださったことを知るのでありましょう。