11/5の礼拝説教より

(半年ぶりの説教です。主にある友情と忍耐とをもってお支えくださった教会の皆さまに感謝し、御名を賛美いたします。)

説教 ヨハネによる福音書2章1ー11節
「水がぶどう酒に」

主イエスが最初になさったしるしです。
しるしとは、この不思議な出来事を通してイエスというお方の真実が示されているということです。
「三日目にガリラヤのカナに婚礼があって」と書き始められています。
「三日目」という言葉に目がとまります。主のご復活の日を思い起こさせます。ヨハネ福音書は、この出来事を伝えるときに、すでに、復活の光が射していたのだと、語っているようです。

カナという村は、主イエスのお育ちになったナザレのごく近く、北に歩いて2時間ほどの所にあった、と言われています。そこには、主のご家族と親しい間柄にある家があり、その一つの家庭で、婚礼が行われたのでありましょう。

当時の婚礼は、春であれば麦刈りの後に、秋であればぶどうの収穫の後に行われたと言われています。そして、祝いの宴は一週間にも及びました。


主イエスはトラブルメーカー

「イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。」と記されています。

この、喜ばしい祝いの席に、ぶどう酒は無くてならないものでした。
「ぶどう酒のないところには喜びはない。」という言い草があったと伝えられています。とっておきのぶどう酒が、特別な祝いの席に振る舞われる。そして、喜びが満ちる。
普通は、最初に一番よいぶどう酒を出すのが慣わしでした。
ところが、思いがけないことが起こります。ぶどう酒が底をついてしまったのです。
ぶどう酒が尽きてしまえば、祝いの宴はおしまいです。おとめたちは踊りを踊って祝うことも出来なければ、若者、老人たちも陽気に楽しむこともできません。あたかも満ちていた潮が一気に引くように、婚礼の喜びは引いていってしまう。接待をしていた人々の、青ざめた顔が、目に浮かぶようです。

それにしても、なぜぶどう酒が無くなってしまったのでしょう。誰でも、結婚式ともなれば、しっかりと段取りを整えておくものです。新しい家庭のスタートであり、喜びの祝いの席だからこそ、注意深く、落ち度のないようにするのではないでしょうか。

ある人が、少し大胆に、こんな想像を巡らしています。 その日、招かれていたのは、主イエスお一人であったのに、主が弟子たちまでも一緒に連れてきてしまった。その余分な人数のために、ぶどう酒は足りなくなってしまった。主イエスはトラブルメーカーだった、と。
まったく根拠のない話でもありません。2節に「イエスも弟子たちも、その婚礼に招かれた」と書かれていますが、実は、招かれた、というのは一人が招かれたという言葉でして、「主イエスお一人が招かれ、そして弟子たちもそこにいた」と訳すこともできるのです。

しかし、考えて見ると、主イエスをお招きするということ、主がおいでくださるということは、わたしたちの予想や段取りを変更しなければならない、わたくしたちの思いが打ち破られるということになる、そういうことなのかな、と思うのです。
この日、主を招いた家は、その喜びの席に、さらに多くの人を招くことになった。段取りは見事に破綻してしまう。主イエスはトラブルメーカーでいらっしゃった。

心配るマリア

イエスの母マリヤは、この時、「ぶどう酒がなくなりました」と主イエスに告げたというのです。
婚礼の喜びに欠乏が生じていることに気づき、それを主イエスに伝えています。この困った状況の中で、なんとかならないかと心を配り、執成しています。
これは、いかにも母親らしい姿です。母親はいつでも何か欠けているものはないか、生活に必要なものが満たされているだろうかと心を配っています。細かなことまで、気を休めるいとまもなく、配慮しています。

少し丁寧に、このマリヤの様子を観察しますと、マリヤはこの婚礼の席に、接客をする者の一人として、しかも、僕たちに指示を与える、そのような立場にいるということが見てとれます。
マリアが、そして弟子たちが、この婚礼に招かれ、招かれただけではなく、婚礼で大切な役割をはたした、ということです。

教会がそこに

横浜に、横浜指路教会という古くからの教会があります。かつて、そこで長い間牧師をしておられた、ある先生が、次のようなことを説教の中で述べておられます。
母マリヤと弟子たちとが主イエスと共に、婚礼に連なっていると言うことは、別の言葉で考えると、教会がそこに入っている。教会がそこに招かれている、ということである。
教会がそこに入っている。教会がそこに招かれている。興味深い言い回しです。普通、わたしたちは、教会に来るとか、教会に招かれるという言い方に慣れ親しんでいます。主がわたしたちを教会に招いてくださったのです。
しかし、ここでその先生(村田先生)は、カナの町の婚礼に、教会が入っている。教会が招かれている、と言われるのです。
40年以上前の説教だと思いますが、興味深い、新鮮な言い回しだと感じました。

こういうことです。結婚というのは、一面では、自然の営みです。ごく当たり前の生活が、カナの町においても営まれていました。しかし、その人間の自然の営みは、上から、神さまからの恵みによって、祝福され、新しく命あるものとされます。
そのことは良くわきまえていなければならない。
自然は思いがけない姿をときに現します。わたしたちはそこで狼狽えたり、打ちひしがれたり、倒れたりします。この生活に、何の意味があるのだろうか、と問い返す日々を送ることもあります。婚礼の祝いの席のぶどう酒がなくなってしまうような、欠けを経験します。
この自然を救うものは、自然ではなくて、自然を越えたものからでなければなりません。新しい生命、上よりの霊、なにか自然のものにない、より高い、より深いものがそこに入ってこなければならない。
信仰者の生活というのは、日毎のわたくしたちの生活の中に、永遠とのつながりを求めていくことなのだ、と言えましょう。そして、そのことが、教会が入ってくる、教会が招かれる、という具体的な言い回しとなるのです。
この先輩の牧師先生は、ことに、母マリヤの振る舞いに、着目して、こう述べておられます。「イエスの母マリヤが心配して、このつきてゆく結婚の宴をなんとかならんもんだろうかと主に問いかける。これは教会がこの自然の関係を本当のところにもってこようとする動きだと理解してもいいのだと思います。教会というものは、そういう矢張り自然的な関係の中で動いております人間を、もっと高い次元にまで持ってくるために、もっと高い意味をとらえさせるために、教会というものはやぱり力を注ぐものだということを考えねばならない。」そう書き残しておられます。

仕え人

マリヤはとりなしており、僕に命じて、キリストの御業に仕えます。
ここに「僕」「僕たち」という言葉が使われています。これは特別な言葉が用いられています。ディアコノイという言葉です。「仕える人」「仕え人」と訳せばよいでしょうか。後に教会の制度が整ってまいりますと、この言葉は「執事」と翻訳されるようにもなります。長老と執事という教会の制度上の言葉がありますが、その執事です。元々は「仕える人」という意味です。
ヨハネによる福音書は、この言葉を12章26節でもう一度、用いていますが、そこでは「主イエスに仕える人」という意味をはっきり示しています。
単なるその家の僕ではない。キリストに仕える、仕え人が、ここで顔を出しているのです。キリストに仕える教会が姿を見せている、と言ってもよいと思います。
マリヤはその仕え人の一人として、そこにいるのです。

そして、この仕え人たちは、主イエスのお言葉に従って、水瓶に水を満たして運んできました。
その時、水がめが六つ用意されていました。それは、客の足を洗うためと、律法に従って清めのために手を洗うためです。手を洗うのは、それは食事ごとに、配膳がかわるごとになされました。
その水瓶に満たされた水が、キリストによってぶどう酒に変えられたのでした。それは、最初に出されたぶどう酒よりもよい物であったというのです。

主イエスはしばしば婚礼を来たるべき神の国の祝宴の比喩として語っておられます。カナの婚宴での出来事は、神の国の祝宴が成就することのしるしとなりました。すなわち、イエスは最初に出された酒よりも良いぶどう酒をもって婚礼の喜びの欠如を決定的に満たしました。しかもユダヤ教の清めの水が新しい良きぶどう酒に変えられたのでした。

マリアと主イエス

さて、今日の物語の中に、もう一つの大切な言葉がありますので、それを心に留めたいと思います。
4節です。「イエスは母に言われた、『婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません』」そう書かれています。以前に用いていた口語訳聖書は『婦人よ、あなたは、わたしとなんの関わりがありますか。』と主のお言葉を翻訳していました。

「婦人よ」と母マリヤをお呼びになる。そっけなく感じてわたしたちは驚くのですが、これは丁寧な呼びかけの言葉でして、あまり驚く必要はないようです。
それよりも、「あなたは、わたしとなんの関わりがあるのですか。わたしの時は、まだ来ていません」とお語りになる主のお言葉に戸惑いを覚えます。
突き放すような、冷たい感じを受けます。
しかし、それは、こういう意味だそうです。「心配しないでください。あなたは、どんな成り行きかよくおわかりにならないのです。この事態をわたしにまかせてください。そうすれば、わたしのやり方で収拾しましょう。」。主イエスだけがこの事態を把握し、解決できる。
「わたしの時は、まだきていません。」とも仰っておられますが、イエスが栄光を受ける時の先取り、そのしるしとして、行うということを告げておられます。

主は、マリヤの心配りと、とりなしの言葉をお聞きになります。しかし、そのマリヤとは距離をおいて、区別をして、ご自分の中から発するみ業について、お語りになろうとしておられるのです。その意味で、マリヤを退けなさるのです。
そして、主イエス・キリストは、この日、水をぶどう酒に変えられました。マリアや他の仕える人たちは、ただ水を汲み、それを主イエスのところに運ぶことができるだけです。その水は自然のものにすぎません。その水を運んでくるだけのことが仕える人たち
のできたことでした。
六つのかめ、それは、七が完全数ですから、そこに準備されていたものは不十分なものであったということです。しかし、その水がめの口のところまでいっぱいに水を入れ、その水が杯に注がれます。
彼らは何が起こっているのか理解してはいませんが、その水がイエスの言葉によって準備されたことをちゃんと心得ています。そして、水は最上のぶどう酒に変えられたのでした。

運ばれる

仕え人たちは主イエスのお言葉に従って水がめを運びました。「運ぶ」とありますが、病気になって何度私自身運んでいただいたことでしょうか。ストレッチャーに乗せられて救急車に、救急車で聖路加病院へ。病院ではベットに寝かされて病室へ。腰掛けるのもままならないときにベッドから車いすに移乗していただき、車椅子で病院内を。浜松市リハビリテーション病院へは福祉タクシーで。セラピストの方が苦労してベッドから車椅子への移乗の段取りを考えてくださり、車椅子で運ばれる生活とリハビリがはじまりました。リハビリは自分で何かをするというのではなく、セラピストの方が順番に身体を整えてくださり、そのうちにだんだんと麻痺足に力が入るようになり。言われるままに身体を動かしているうちに、立つことと歩行も装具と杖を頼りに出来るようになりました。言わば、運ばれてきたと言えましょう。

考えてみると人生というのは運ばれているようなものだと思ったのでした。ことに、信仰生活は主イエスに運んでいただく歩みではないでしょうか。主のお言葉によって運ばれているのです。

この「運ぶ」という語は「結ぶ」「(実を)結ぶ」という意味もあり。ヨハネ福音書15章で主イエスのお言葉の中で用いられています。「わたしはぶどうの木、あんたがたはその枝である。私につながっていなさい。そうすれば実を結ぶ。」

主イエスが私たちを運んでくださり、実を結んでくださるのです。その実を私たちは地上でほんの少しですが味わいしるようになりました。

運ばれるのが人生です。

料理長はそのぶどう酒を味わうと、驚き、そして、おどけて、「だれでも初めに良い葡萄酒を出し、酔いがまわったところに劣ったものをだすものですが、あなたは良い葡萄酒を今まで取っておかれました。」と花婿に話した、というのです。
主イエスが水をぶどう酒にお変えになった。その最後に振る舞われた最上のぶどう酒によって、宴の喜びは満ちました。

私たちの人生は所詮は水の如くです。しかし、御言に忠実に仕える者は、その水を良きぶどう酒に変えてくださる方を知る。のだと思います。

主イエスのなさった、最初のしるし、です