11/12礼拝説教より

説教 ヨハネによる福音書2章13ー25節

「礼拝への招き」

神を礼拝する場所と時があって、人の生きる生活が造られます。神を礼拝するところには、木が実を結ぶように、人の生きる歩み営みが形作られます。

旧約聖書を読みますと、アブラハムやイサクやヤコブといった信仰の父たちは、生活の場所に祭壇を築いた、と記されています。神が、私たちをお造りになって、その交わりの中に生かしてくださるというのは、私たちの感知しない、分からないところで、そうしていてくださるというだけではありません。礼拝という時と場所において、神は私たちにお臨みになるのであります。アブラハムもイサクもヤコブも祭壇を築きました。そこに具体的に神の傍らにあって生きる生活がつくられたのであります。

神殿は、イスラエルの人々の祭壇でありました。しかし、その祭壇であるはずの神殿が、主イエスの憤りの対象となっています。そして、主は「祈りの家」をお求めになるのであります。

第二のしるし

主イエスは神殿の中で商売をしている人々を追い出されたのでした。

これは、しるしです。すなわち、この出来事をとおして、主イエスはエルサレムの神殿に代わる、新しいまことの神殿の建設者であられる、まことの礼拝へと私たちを招いてくださるお方であるとということを伝えるしるしとなりました。

そして、主イエスはご自身の神殿、すなわち、教会を、常にまことの教会となさるために、恵みの力によって、これを清めるお方である。ということをもお示しになったのでした。


犠牲のささげ物?

祭りが近ずいたので近くに住む人々は皆集まり、遠く、世界中に散らばっているユダヤ人も、大勢エルサレムに上ってきていたことでしょう。主イエスもこの祭りのために上って行かれたのでした。

人々は神殿に納める税金と、供え物をささげて礼拝をしました。

それには負債、借金を支払うという意味がありました。神さまの前に負っている負債です。

今日、私たちが献げる献金とは違います。私たちももちろん、 神さまに対して負債がある、罪の故の負債があるということを知るようになりましたが、その負債はすでに神の独り子イエス・キリストがご自身を父なる神さまに献げてくださって、これを償ってくださったのですから、私たちはもはや負債を償うための献げものをすることはありません。

しかし、エルサレムでは、過ぎ越しの祭りにおいても負債のために献げものを必要としていました。

また、感謝と祈りのために、供え物として牛、羊、鳩が、律法の定めに従って献げられたのでした。その中で、鳩は一番身近なものでして、貧しい人々は、鳩を献げました。

14節に「神殿の境内で牛や、羊や、はとを売る者たちと、座って両替をしている者たちをご覧になった」と記されています。

律法によると、献げられる動物は、完全で、傷がなく、汚れのないものでなければなりません。それで、律法にかなうようにと、祭りに供するための牛や羊や鳩が売られていたのでした。

もちろん、普通の値段より高く売られており、神殿の外で買うよりも値段が2倍はしたと、と言うのです。

両替も同じです。神殿で献金をする、それは神殿のための税金でもありました。そのために用いられる貨幣が決まっていまして、人々は両替をする必要がありました。当然、そこでは手数料を支払わなければなりません。

商売の家としてはならない。

主は、羊や牛を追い散らし、両替人の台をひっくり返してしまわれたのでした。

そして、主はこう言われました。「このような物はここから運び出せ、わたしの父の家を商売の家としてはならない。」。

主は言われるのです。

「あなたがたのこの教会は父の家だ、祈りの家だ」  「あなたがたは父の家に招かれた礼拝者である」。「あなたがたの礼拝、あなたがたの教会は、そのことをよくよくわきまえているであろうか。」そういう問いかけを、誰もが受けるのだと思います。

エルサレムの神殿で羊や鳩を売っていた人々、両替をしていた人々は、は神殿が神の家であることを了解していました。だからこそ、神殿にふさわしい犠牲の動物を用意し、また、特別な貨幣を両替していたのです。ここは、普通の場所ではない、特別な場所。聖なるところである。そう認識していましたが、しかし、神の家であることが、どこか置き去りにされてしまう。

主は言われました。「このような物はここから運び出せ、わたしの父の家を商売の家としてはならない。」。

十字架を引き受けなさる主イエス

17節を読みますと、主の振る舞いを見ており、そのお言葉を聞いていた弟子たちは、「あなたの家を思う熱心が、わたしを食いつくす」と書いてある聖書の言葉を思い出した、と記されています。

これは詩篇69篇の中に記されている言葉です。その詩篇は、神に仕える敬虔な人が遭遇する苦難について歌っています。

熱心に神に仕える、神に仕えることに妥協のない人、その人が受けるであろう苦難を歌うのです。そして、この詩編は、メシア、救い主のことを指して歌っていると受け止められるようになりました。

弟子たちは、主イエスの振る舞い、激しいたち振る舞いを見て、この詩篇の言葉を思い起こした、というのです。

その時、神殿に仕える人々はどんなに憤慨し、怒りを蓄えたことか。自分たちの営みを批判され、見当違いだと言われて、腹をたてない人はないでしょう。ましてや、自分たちの宗教心、それはもっとも神聖な心、尊い思いと心得ておりましたから、その思いを蹂躙され、我慢ならないことだったのではないかと思います。

しかし、主はその我慢ならない人間の心に挑みかかるようにして、宮清めをなさった。父の家、祈りの家となさるためにであります。

詩篇の言葉を思い起こした弟子たちの直感は、当たっていました。

この宮清めの出来事によって、主イエス・キリストの道は、苦難と受難の道、十字架への道となりました。

主は、伝道の生活の始めに、ご自身でその道をお引き受けになったのだ、とヨハネ福音書は伝えているのでありましょう。

キリストが捧げられた

18節を見ますと、ユダヤ人たちは主イエスに「こんなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せるつもりか」と問うています。この神殿の営みを否定する、そういうあなたはいったい何者なのだ、それなら、そのしるしを見せろ、と言ったのでした。

主はお答えになりました。「この神殿をこわしてみよ。三日で建て直して見せる。」

主は、ご自分のこと、ことに十字架と復活による言われています。

ユダヤ人たちは勿論、そのことを理解することができませんで、たいそうな誤解をし「この神殿を建てるのには、46年もかかっている。それだのに、三日のうちにそれを建てるとでもいうのか」、そう言ったというのです。

注意深く、今日の聖書の箇所を読みますと、神殿を言い表す言葉が、二つ用いられているということに気がつきます。一つは、前の方で用いられていた「宮」と言う言葉です。神の宮、神殿を言い表す言葉です。もう一つは、主のお言葉の中に出てきますが、「神殿」と訳されている言葉です。

はっきりと違う言葉が使われています。実は、主がお使いになった「神殿」という言葉は、もともとは「至聖所」という言葉です。

神殿の中に、その中心、心臓部と言ったら良いと思いますが、「至聖所」と呼ばれる場所がありました。神殿の中の神殿、聖所の中の聖所、という意味で「至聖所」と呼ばれます。もっとも神聖な場所です。神の臨在なさる場所です。そこには特別に選ばれた祭司しか入ることができず、その祭司は犠牲の供え物をささげてイスラエルの民のために礼拝をささげました。礼拝の中の礼拝が、そこで行われました。ことに、人々の罪の赦しと、贖いのために、執り成しの祈りがささげられました。

この至聖所を言い表す言葉をもって、主は「神殿」と仰せになりました。

そして、21節を見ますと、主はその神殿をご自分のからだであると仰せになったのだ、と書かれています。

「すなわち、三日のうちに、それを起こす」と主が言われたのは、建物のことではなくて、まことの礼拝のことを言われたのです。まことの礼拝が、主のおからだを通して実現するのでした。

そこでは、羊や牛や鳩を必要としませし、両替の必要もありません。主のからだが備えられました。贖いの供え物、償いの供え物として、主がご自分をわたしたちのために神に差し出してくださいました。

そうすることによって、礼拝が開かれることはなかったのであります。

22節を読みますと、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」と書かれています。

宮きよめという主イエスの行為は、結局新しい神殿の話しになりました。エルサレムの神殿が廃棄され、イエス・キリストの体なる神殿が置き換えられることのしるしがここに行われたのでした。

礼拝の生活、祭壇を築く生活、それは私たちにとって一番重要な、土台となることです。

そして、そのことに神ご自身が関心をもっていてくださる。主イエスがその礼拝の場所をご自身のものとして取り戻していてくださった。それが、ここに記されている宮清めです。

その礼拝において、そなえられるべきささげもの、和らぎのささげものは、イエス・キリストご自身です。神さまがわたしたちのために備えてくださった、神への良きささげものです。

イエス・キリストによる宮清めは、それによって御自身が神殿の『主』、礼拝の『主』であられることを示されたのでした。

そのために主イエスはエルサレムにお入りになり、また、十字架におかかりになり、三日目に復活なさったのでした。